2024年6月18日 創業77周年を迎えました
2024-06-18
皆様こんにちは!
本日2024年6月18日、
指宿白水館は
おかげさまで創業77周年を迎えます。
今日は指宿白水館の歴史を
少しだけ紐解いてみようと思います(*^▽^*)
宿の始まり
昭和22年(1947年)に鹿児島市内に客室12室、 従業員7名で小さな旅館を営んだのが始まりです。 その後、昭和35年(1960年)には指宿市の現在の敷地に移り、客室数は12室、従業員数は15名でした。魚見岳をダイヤモンドヘッドに、田良浜をワイキキビーチに見立てて、アロハシャツやムームーをいち早く取り入れるなど、指宿全体を「東洋のハワイ」と捉えて、全国的な観光地としての知名度を確立させるために「ハワイアンホテル白水館」の名称で情報を発信したり、旅館だけでなく、指宿名物の砂むし文化や温泉、観光地としての指宿をPRしてきました。現在でも指宿市アロハ宣言や指宿フラフェスティバルが開催されるなど、指宿のまちに強く息づいています。
写真は昭和50年頃の玄関。
昭和60年頃には客室数が210に増えて、300名以上の従業員が従事しました。度重なるオイルショックが起こり、日本経済はもちろん指宿観光の低迷期を乗り越えるために、様々な模索をする中で、この頃から「和風旅館」として経営方針を徐々に切り替えていきました。こちらの写真は、当館のフロント近くの階段を下りた辺り(お食事処 源彩や味彩に向かう途中)にございます。
泉あふれて
ところで、 白水館の屋号には由来があります。
創業者である下竹原弘志が戦時中に幾度も泊まった台湾にある旅館の名前が「白水館」で、鹿児島県出水市出身の方が経営されていました。終戦を迎えて鹿児島に戻り、一年ほど行商を続ける中で、鹿児島市内に旅館が殆ど無いことに気づいたことがきっかけとなり、後に「鹿児島白水館」を起ち上げることになります。
写真は創業者の下竹原弘志。
屋号を決める際には、かつてお世話になった台湾の白水館を思い出したといいます。その名前がとても気に入っていましたが、念のために相談したある易者から「白に水を合わせると泉になる。泉は、こんこんと湧き出て尽きないから商売に適して繁栄するだろう」という言葉が、決定的な力になったのでした。
さらに、自身の著書『泉あふれて』の中では次の様に語られています。
”「宿とらば花ある家を選べ」という言葉がある。旅館や旅籠のない時代、旅人は一般の民家に泊まる以外方法がなかった。その際に花をいっぱい作っている家なら、心優しい親切な人たちがいるに違いないから、心配なく泊まれるという意味の言葉である。確かに心から花をいつくしみ緑を愛する人は、情操豊かで心優しい人が多い。 そうしたことも頭にあって、私は花と緑を指宿白水館の経営基盤の一つにしようと思ったのである。”
今でも女将をはじめ、園芸スタッフの中にも大切に受け継がれている言葉です。
文化と芸術の館を目指して
あれから77年。現在もコロナ禍を過ぎようとする中で模索する日々ですが、これまで営業を続けてこられたのも幾度となく泊まりに来て下さるお客様や、インターネット検索などで初めて当館を知ってお越しくださるお客様、皆様のおかげです。
数年前に実施された耐震工事を経て、現在も日々様々な施設設備をリノベーションしながら営業を続けております。
指宿ならではのおもてなし文化や、これまでの指宿白水館の伝統を大切に受け継ぎながらも、今後の新しいサービスの在り方をお客様に学びながら、これからも従業員一同励んで参ります。
指宿白水館は、敷地内にある美術館「薩摩伝承館」はじめ、館内数か所のギャラリーなど、歴史的な文化財や美術品などの展示が随所にございます。当館にお越しの際には、ぜひ鹿児島・指宿の歴史にもご興味をもっていただき、指宿白水館ならではの豊かな時間をお過ごし下されば幸いです。
これからも指宿白水館ならびに
薩摩伝承館をどうぞよろしくお願い申し上げます。
鹿児島 砂むし温泉 指宿白水館
参考書籍:
「泉あふれて」下竹原弘志 著
薩摩伝承館
http://www.satsuma-denshokan.com/
女将のおとりよせ「かみよせ」
https://okami-otoriyose.jp/